風雪45年の断章 そして今・・・行雲流水の日々
懐かしの写真6
ジャーナリズムを追い続けた40年
開局2年目(昭和47年)当時の超高級カメラ(音声収録可能)BLを使って鹿児島市の鶴丸高校前で取材する小笠原氏(入社2年)、米村氏(入社11か月)、川越氏(入社2年)の3人(下の写真左から・クリックすると拡大)。早朝から卒業式反対のビラを配る鶴丸高校生にインタビューしたスクープ取材。3人はKTSの労働組合運動にも先鋭的な活動を展開した(右上写真参照)。組合運動には「すべてはKTSの発展の為に・・・」という共通認識があり、いわゆる「一般の労働組合運動」とは一線を画していた。
また川越氏が刊行した「報道界」という雑誌を通じて当時、鹿児島県が推進していた新大隅開発計画などに対して反権力・反公害の立場で報道を続けた。テレビと活字の両方の世界で地域の問題を見続けた。「報道界」の1971年8月号には鹿児島テレビ労働組合の365日間の記録を掲載。組合の結成時の様子が生々しく描かれている。「報道界」の発行は数年間続いた。「テレビ映像研究」は当時、番組制作のための専門誌で全国の多くのテレビデレクターに愛読された。1980年1月号では米村氏がKTSの番組制作について報告した。その後の3人は・・・
懐かしの写真7
ドキュメンタリー「最後の山師」取材。カメラ・記者・ディレクターの一人3役
菱刈金山で金の採掘にあたる前田正吉さんを追う。カメラは川越氏。東山ケ野鉱山開発に生涯を尽くした前田さんは6000億円以上の黄金が眠っていると信じて鉱山開発に執念を燃やした。
キャノンスクーピックカメラでブラジル取材
ブラジル移民70周年を記念して鹿児島県からブラジルに渡った家族を取材。戦前、鹿児島県からは多くの県民がブラジルに渡り生活を始めたが、成功した人、挫折し帰国もできず亡くなった人など様々な人生があった。
ビデオ時代でも写真伝送器も顕在、速報重視の報道体制
開局当時のカメラはベルハウエル社製(ドイツ)のDRだった。左手にカメラを持つ川越氏。このカメラは30秒間しか連続撮影できなかった。
取材現場で撮影した写真(ポラロイド写真)はKTS報道部に設置された伝送受信機(写真左奥)で入手。ビデオ時代に入っても現場映像を速報する体制は維持していた。ニュースの重要な要素の一つは速報であるという土壌が報道部内あり、事件事故が発生するとすぐさまヘリコプター手配という動きをしていた。
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ズームイン朝でNTVスタッフと海外取材
フイリッピンのパラワン島に3週間滞在
ダイビングブームの先陣を切り、NTVのズームイン朝ではパラワン島のエルニドリゾートへ取材班を派遣。ディレクターはKTSに依頼があった。カメラなど技術スタッフはすべてNTVで
カメラマンとテクニカルディレクターは前年に日本テレビが世界で初めてチョモランマ登頂を撮影したときスタッフだった。当時ズームイン朝は視聴率15パーセントを常時獲得し日本テレビ内でも強い番組だったため、優秀な技術スタッフを集めることができた。カメラマンが見事な撮影テクニックを持っていたことにびっくり。
詳細こちら
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懐かしの写真1
昭和46年・年末闘争(開局2年目)
画面右から村田武徳(入社1年8か月)米村秀司(入社8か月)小笠原弦(入社1年8か月)山下郁郎(入社8か月)撮影川越一路(入社2年8か月)
11PMを奄美から全国放送
深夜の人気番組11PMを鹿児島から発信。1976年4月25日城山観光ホテルから「おおらかにオープン薩摩の女」(デイレクター田代康人氏)に続いて翌年の1977年には奄美大島から「イモーレ奄美・コバルトの海に超えてる女」(ディレクター米村秀司氏)を全国放送。この時の視聴率は深夜にもかかわらず13.4%を記録。年間で最高の視聴率となった。
人気のプロレスを全国中継
1970年代から1990年代まではプロレス番組がゴールデンタイムが放送されていた。KTSは新日本プロレス(アントニオ猪木・テレビ朝日系)と全日本プロレス(ジャイアント馬場・日本テレビ系)の両番組を放送。毎冬になると二つのプロレス中継を鹿児島県立体育館から放送した。
写真は左から米村秀司氏(担当デイレクター) アントニオ猪木 前田健二氏(中継カメラ担当)
懐かしの写真2
1980年代のニュースデスク
1980年代の報道デスク。円形のテーブルの上に県警、県庁などとの専用回線の電話が置かれ事件や記者発表の連絡を待ちながら今日のニュースの構成を固めていった。
他社を圧倒した選挙特番
選挙報道で大量のパソコンを使って集票作業、当確ラインなどを判定。KTSの当確は他社より早いという定評があった。選挙報道は民主主義の根幹報道。報道だけでなく営業、総務、支社などの全社員が協力してくれた。選挙特番の台本も資料編、台本編の2部構成で印刷。候補者の略歴、過去の得票数、党派別得票数、開票所の電話一覧、票送り人名簿など選挙に関するすべてのデーターを印刷してスタッフに配布した。
巨人が初めて鹿児島で試合
巨人がオープン戦で初めて鹿児島に来た。鹿児島ジャイアンツのちびっこ選手とともに王選手にインタビュー。小笠原弦氏の若いころの姿も・・・
懐かしの写真4
NNN(日本テレビニュースネットワーク)脱会の日
KTSは開局からニュース協定を結んでいたNNNをこの日脱会した。日本テレビで行われたNNN報道部長会で米村秀司報道部長がお別れの挨拶を行った。KTSが開局以来NNNへ配信したニュース素材約2000本の取り扱いなどについて円満に双方合意した。鹿児島で新たに開局する鹿児島読売テレビ(KYT)は・・・
初の自社制作番組「サンデーイレブン」
KTSの初の自社制作番組がサンデーイレブン(日曜日午前11時から45分間)で司会は小笠原弦氏、デイレクターは田代康人氏(兼プロデューサー)、と米村秀司氏の二人。先輩や経験者の指導がないまま毎日取材や編集にかけずり回った。毎週金曜日に収録して放送。狭いスタジオではコーナーが二つしか取れなかった。写真のカメラにはKTS旧文字ロゴが見える。
大関若島津誕生で独占取材
1982年(昭和57年)鹿児島県種子島出身の若島津が福岡場所で12勝3敗の好成績をおさめ、大関昇進を決めた。KTSは場所前から若島津を・・・