ドラマアルバム

制作裏話

ドラマ「江夏八重子の生涯」について

KTSが開局20周年を控えた昭和62年(1987年)、当時制作部長の小笠原弦は当初、「黎明の群像」と同じようなドキュメンタリー番組の制作を意図し、情報収集に努めていた。そして、県立図書館に通いつめて出会ったのが幕末期にイギリス人医師と結婚した江夏八重子だった。しかし、八重子に関する資料は極端に少なく、僅かな記録を基にドラマ制作しかないという考えに変わった。
芸術祭賞男と言われ、NHKで多くのドラマを手掛け、数々の受賞に輝いていた和田勉さんが定年退職を迎えたことを新聞や週刊誌で情報を得ていた小笠原は、ドラマ「八重子」の企画書に長文の手紙を添えて和田さんの自宅当てに送った。もちろん、ダメ元のトライだった。すると、1週間ばかり経ったころ和田さんから「興味大!とりあえず私は何をすれば良いのか、電話が欲しい」というFAXが制作部に舞い込んだ。小笠原は直ちに和田さんに電話し、数日後に東京で会った。小笠原は食事しながら2時間ばかり「八重子」について喋りまくった。和田さんはひたすら熱心にメモを取った。この時の2人の最初の打ち合わせの様子が、大下英治著「知られざる王国 NHK」の中で381ページから395ページに亘って再現されているのでご覧いただきたい。
放送は大阪よみうりテレビ(YTV)の「木曜ゴールデンドラマ」2時間枠で決まった。脚本は、NHK在職時から和田さんがコンビを組んでいた売れっ子作家の井沢満氏、制作スタッフはYTV紹介の制作会社「セディック」で揃えてもらうことになった。セディックはテレビドラマの他、映画製作も手掛けており、「八重子」の制作スタッフはカメラ、照明、美術など全員が映画製作の人たちになった。「和田勉さんの民放初作品だったら是非やりたい」と映像のプロフェッショナルたちが集結したのである。
制作費は、YTVが木曜ゴールデンドラマ1本の通常予算の3500万円、それに加えてKTSが1500万円を担い、計5000万円の2時間ドラマになった。
ここに至って、「和田勉さん民放一作目はなんと鹿児島テレビ!何故?」と業界ではハチの巣をつついたような騒ぎになり、和田さん降板の危機もあったが紆余曲折を経てKTSでの放送が確定し、一連の騒ぎは落着した。
出演は和田さんの秘蔵っ子で新人の未来貴子の他、当時飛ぶ鳥落とす勢いの「少年隊」植草克秀、KTSでお馴染みの宮尾すすむ、川谷拓三、松尾嘉代らと、KTS社員や鹿児島大学演劇部、地元劇団の人たちにご協力いただいた。
連日話題になった鹿児島ロケ、横浜ロケ、東京のオープンセットでの撮影を無事済ませ、YTV発で全国放送が1988年10月27日、KTSでは11月9日に放送された。視聴率は東京地区11%、大阪地区16%、鹿児島地区75%であった。
鹿児島地区の数字を小笠原から聞いた和田さんは「NHK紅白を越えた!」と大きくガハハと笑った。
(原稿提供小笠原氏)
下段中央写真は鹿児島ロケ撮影を終えて食事会。前列左から2人目は黒沢映画のチーフカメラマン(上田正治氏) 後列左から2人目は映画「おくりびと」のプロデュサー(中沢敏明氏)

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